辺境のブックス・レビュー

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北極から地球を見直すーー『ノーザン・ライツ』|中村和恵

オルタナティブに生きる人

北極から地球を見直すーー『ノーザン・ライツ』|中村和恵

ハワード・ノーマン 著/川野太郎 訳/みすず書房

編集:平岩 壮悟
撮影:村田 啓

2021.11.05

/ Posted on

2021.11.05

/ 編集
平岩 壮悟
/ 撮影
村田 啓

ハワード・ノーマンという小説家はアメリカ合衆国オハイオ州の生まれだが、なにしろカナダ北辺の寒い寒い世界の話ばかりを書く。その情景描写には印象深い映画の一場面のような輝きがあり、設定と展開には読み終わらないうちから友達に教えたくなるような巧みさがある。薄っぺらでセンチメンタルな話はもう飽きた、人生の深みを感じられる、でもとにかく読むことが楽しい小説を教えて、という人に、間違いなくお薦めできる作家だ。

だが、それだけではない。

むしろ、うまい作家であることがちょっと邪魔に感じられるところがあるほど、わたしはこの作家のある側面に共感するのだ。彼が描く、互いにすべてを理解することはできない人たち、いわば一緒に暮らしながら別の世界に住む人どうしが、隣人として生きるすべ、異なる民との「距離」のとりかたに。異なるものが互いに異なるままで、出会い、敬意ときには畏怖をもって、存在を認め合うには、距離が要る。じつはこれ、異文化の間だけではなく、ひととひとの間すべてにいえることだとおもう。

2020年にみすず書房から日本語版(川野太郎訳)が出たノーマンの最初の小説、『ノーザン・ライツ』(1987年)を、わたしは長いこと「読んだつもり」でいた。出版当時とても高く評価されたこの小説(全米図書賞候補というよりもアーシュラ・K・ル=グインの賞賛が帯にあることのほうが日本人には「お墨付き」に見えるかもしれない)を、同じ著者による別の本、『ノーザン・テイルズ Northern Tales』(1990年)と混同していたのだ。『ノーザン・テイルズ』は、ノーマンが15歳でひとりカナダに移住し、イヌイットやクリー・インディアンの人々に出会ってかれらの民話を学び、さまざまな北方民族の物語とあわせて翻訳・編纂した本で、アイヌの話まで含まれているのだが、日本語訳のタイトルは『エスキモーの民話』(松田幸雄訳、青土社、1995年)になっている。できればタイトルを改めてまた出してほしいなあとおもう本だ。じつは網走に北海道立北方民族博物館という、世界でもまれな博物館があって、北極圏を中心にアイヌ、ウィルタ、ニヴフなど北海道から、サハリン、シベリアの民、のみならずカナダや北米、北欧のサーミまで、北方民族をグローバルな視野でとらえる展示を行っている。これこそノーマン編の民話集の世界観なのだ。北極を地図の中央にして、地球を見直すと、世界がぜんぜん、違って見えてくる。おもしろい。

小説『ノーザン・ライツ』でも、先住民族が大切な、印象深い場面を繰り広げる。20世紀半ばのカナダ北辺、わけあって両親とも、一緒に育ったいとことも離れて暮らす15歳の少年ノアは、クリー・インディアンの血を引く親友をはじめ、先住民族の人々の呼吸やことばとともに生きている。親友の死、ほぼ不在の父親の隠された罪、都会で暮らしたい母親の気持ち、父親との思いがけない再会と訣別、トロントへの旅、母ミナが上司(情事の相手でもあった)から買い取った映画館の経営、そして吹雪に閉ざされる村に遠くからの声を運んでくる無線機。まったく作家が最初に書いた物語というのは球根みたいなものだと、あらためて思う。ここにはのちのノーマン作品の萌芽がぎゅっとつまっている。

映画館の映写技師募集に応じて、いきなり妻と子どもたちを連れ、家財道具一式をもってやってきたクリーの男、レヴォンは、ミナの困惑をものともせずそのまま一家で映写室に住み込み、野営地のような暮らしを始める。都会のトロントで他人との関わりを避け、緑地や池を狩り場として利用する(魚、縞リス、鴨などがとれる!)彼の暮らしぶりは、意外だが筋のとおったもので、作家はきっとこのような考えの人を北で実際に知っていたんじゃないかとおもわせる。アルコールや失業の問題を抱え大勢が安アパートに同居する困窮した都会のインディアン、白人世界と先住民族世界の隙間に沈没してしまうインディアンの子どもたちが多いことを、ノアは知っている。当時でさえレヴォンはひとつの理想、2020年にはもはや不可能な夢にみえる。だが、それをいうならいまの都会の暮らしだって永遠にはつづかないんじゃないだろうか。今日の夕飯はどこで獲る? とレヴォンに訊く日が、いつかくるだろうか? とりあえずもっとノーマンの話が聞きたいとおもう読者は、どうぞつぎつぎ読んでみてほしい。

 

『ノーザン・ライツ』(ハワード・ノーマン 著/川野太郎 訳/みすず書房)

中村和恵(なかむら・かずえ)

作家・詩人・比較文学者・明治大学教授。1966年生まれ。東京、札幌、モスクワ、メルボルン、大阪、ロンドンなどに移り住む。東京大学大学院比較文学比較文化専攻博士課程中退。英語圏文学・文化をフィールドワークとテキスト渉猟により探求、南太平洋の島々やオセアニア各地、カリブ海などを訪れる。小説、詩、批評、翻訳、エッセイなど幅広い分野で活躍。著書に『dress after dress──クローゼットから始まる冒険』(平凡社)『日本語に生まれて』(岩波書店)『世界中のアフリカへ行こう』(共著、岩波書店)など、訳書に『トランペット』(ジャッキー・ケイ著、岩波書店)などがある。