ニューアイデンティティ

ニューアイデンティティ
「人間のための」テクノロジーの終わりは、私たちを自由へと導く

ナンバー

01

「人間のための」テクノロジーの終わりは、私たちを自由へと導く

久保田晃弘 /多摩美術大学情報デザイン学科メディア芸術コース教授/アートアーカイヴセンター所長

「人間」とは何か、そして「私」とは何か。 この根源的問いは、テクノロジーと人間の関係とともに常に更新され続ける。 工学者であり、アーティストの久保田晃弘が描くテクノロジーと人間の新しい関係とは。

聞き手:大橋 真紀
グラフィック:早川 翔人

2021.01.07

/ Posted on

2021.01.07

/ 聞き手
大橋 真紀
/ グラフィック
早川 翔人

 「幼児は、アルファベットというテクノロジーをまったく意識することなく呼吸するーーいわば液体が染み込んでいくように。言葉とその意味は、幼児に自動的にある思考や行動をするように方向づけるのだ」マーシャル・マクルーハン『メディアはマッサージである: 影響の目録』

「テクノロジー」と呼ばれるあらゆる人工物と、私たち人間の関係は、マクルーハンのいうところのアルファベットと幼児の関係にある。人間が言葉をつくっているのか、言葉が人間をつくっているのかわからないのと同じように、常に相互依存的である。この相互依存こそが、人間を人間たらしてめている。そしてこの相互依存の更新によって、新しい「人間」が、そして新しい「私」がうまれ続ける。

21世紀、テクノロジーとの関係からうまれる新しい「私」はどんな「私」だろうか。人間を超えるAIの出現、SNSによる分断、「テクノロジー」という単語にいささかネガティブな響きも含まれる今、私たちの思考、身体、存在にポジティブな変化は起こるのだろうか。

テクノロジーとともにアップデートされる人類と社会の思想が書かれたデザイン論『遙かなる他者のためのデザイン』を執筆した工学者であり、アーティストの久保田晃弘は、テクノロジーと人間の関係を「ものにつくられるものづくり」と表現する。「つくることを考え続けていくと、逆に僕らが、身の回りにある人工物によって、自分自身の思想、行動、身体の動き方が決められていることに気づきます。人間には自由意思があり、自分のことを自分で決めているようでいて、実は人間自身がつくりあげたものたちによって、私たちの行為や思考の多くが規定されているんです。」

しかしそれは決して悲観的なことではないという。

「新しいものが生まれることの一番の意味は、過去の見方を変えてくれることにあります。私たちには、唯一の歴史も、確固たる自己もないかもしれませんが、そのことをポジティブに捉えれば、“人間”をつくっているものを“人間”の意思で変えることができるのです。普段慣れ親しんでいる身近なインターフェイスをあえて変えてみることによって、今までのクリシェの外側にある、新しいものごとを発見できるかもしれません。」

まず、現在の歴史認識を確かめてみたい。久保田の著書の中では、近代以降のテクノロジーと人間の関係について、大きく「機械中心時代」と「人間中心時代」があったとしている。

「プレ・インターフェイス時代、すなわち機械中心時代のモットーは、「科学が発見し、産業が応用し、人間がそれに従う」(1933年シカゴ万博)であった。人間中心主義が高らかに謳いあげられたインターフェイス時代のモットーは、「人間が提案し、科学が探究し、テクノロジーがそれに従う」(ドナルド・ノーマン)であった。」

この「テクノロジーを人間に合わせよう」という一見まっとうに聞こえる「人間中心」の思想に久保田は警鐘を鳴らす。「人間中心主義とは、エンターテイメントの方法に似ています。多くのアニメ映画やハリウッド映画は、主人公の気持ちと一体化することでドキドキハラハラしながら楽しめます。人間中心はそれと同じで、テクノロジーと人間を一体にさせることを目指していました。」そうした人間中心、人間とテクノロジーの一体化の思想こそ「一つまちがえば、人間やその行動は計測して定量化することができる、という人間の機械モデルによるデザイン、という近代主義的な誤りに陥りやすい。」という。

では、人間中心の牢獄を脱するにはどうしたらいいのか。ひとつの事例として、著書では2000年前後に人々に普及した、携帯電話のテンキーのインターフェイスに言及している。

「携帯電話のテンキーのような、一見使いにくそうにみえるインターフェイスに対しても、ある程度の経験を積むことで適応してしまう人間の柔軟性の高さには本当に驚かされる。最近は、携帯電話のテンキーだけでブラインドタッチをこなし、目にも止まらぬ早業で文字入力を行う人まで現れた。」「名人芸と形容したくなるほどのスキルを生み出しているのは、人々の欲望だ。ここでも、欲望さえあれば、指が勝手に動いていく。技術革新の速度はそれなりに速いのかもしれないが、その気になった人間の適応力や柔軟性による変化の速度はもっと速い。人間の可能性は、底知れない。」

機械を「人に合わせる」のではなく、機械によって「人が変わる」ことに目線を向ける、「つくられたもの」より「生まれたもの」の尊さを認める。テクノロジーと人間の間に、工夫のアクションや批評的思考がうまれる余白、適切な距離をとること。それが久保田の提唱する機械も人間も中心にいない「人間周辺主義」の時代である。

「中心」に対する「周辺」と聞いた時に、みなさんは一体なにをイメージするだろうか。コミュニティの中心的な集団と群れない人々。カルチャーの中のメインストリームとサブカルチャー。中心から距離をとる存在は、中心の求心力に抵抗する少数であり、また多様である。

「中心は常に尊いとされ、周辺にいてはダメという見方がある。しかし本当は、周辺にあるものは自由に動けるし、外部と接することもできる。むしろ中心には、似たようなものしか集まらないし、変化を嫌う人が多い。人間周辺主義とは、テクノロジーを単に“人間のため”の道具にするのではなく、人間と違う「他者」として距離をとること。その距離が、人間をより自由にしてくれる。」しかし素朴な疑問として、人間は人間以外の存在を「他者」として認識できるのだろうか。人間という中心に寄せることなく、距離をとり、「他者」として、そこに歩み寄ることができるのだろうか。

「基本的に、僕ら人間はものごとを広い意味で擬人化しないと理解できません。擬人化以外の他者の理解はないといってもいい。例えば犬が“しっぽを振ると喜んでいる”というのも、あくまで人間の感情のカテゴリーによる理解であって、犬の感情のカテゴリーは実際のところわからない。でも擬人化しかできない、と諦めるのではなく、自分が見えている世界の中にも、不可知の見知らぬ世界があると思って犬に向き合えばいい。擬人化を周辺化し、距離感をもって世界と接し、自己を押し付けず他者を想像するだけで、随分違う生き方になる。」

今後、私たちと対峙するかもしれない、人間を超える人工知能や地球外の未知の生物、つまり「遙かなる他者」に対しても同じことがいえる。「シンギュラリティという仮説の真偽を問うことより、シンギュラリティが実現した時、僕らはどういう生き方をすべきかを考えてみることが大切だ。」久保田の人間周辺主義の実践は、すでに始まっていた。

SF作家スタニスワフ・レムの「ソラリスの海」のような、人間とは大きく異なる知的生命体を例にとりながら「遙かなる他者の実践は、別にソラリスの海でなくても、犬相手でも、油滴でもできるんです。」と語る。現在、ホアン・カストロらとの「プロトエイリアン・プロジェクト」チームが探求しているのは、他者としての生命。その最初の試みが、人工の(プロト)宇宙生命「FORMATA」である。展示空間に立ち現れる、地球外の惑星環境をつくるガラスの圧力容器。その中には日々異なる、そして自発的な動きを見せる「生命らしきもの」が存在していた。日常的なイメージではなく、仮想現実でもない。地球上とは異なる環境に存在する「生きているかのような物質」と向き合った時、そこに「人間ではない他者」がひろがる体験があった。

テクノロジーは人間の為だけの「道具」ではない。過信でも拒絶でもなく、人間とは別の知能、身体、思考構造をもつ新たな他者として向き合う。その時、過去としての「人間」は、そして「私」は、より自由に生きる為のアップデートをし続ける。

久保田晃弘 多摩美術大学情報デザイン学科メディア芸術コース教授/アートアーカイヴセンター所長

「ARTSATプロジェクト」の成果で、第66回芸術選奨文部科学大臣賞(メディア芸術部門)を受賞。近著に『スペキュラティヴ・デザイン―未来を思索するためにデザインができること』(BNN新社/監修/2015)、『バイオアート―バイオテクノロジーは未来を救うのか』(BNN新社/監修/2016)、『未来を築くデザインの思想―ポスト人間中心デザインへ向けて読むべき24のテキスト』(BNN新社/監訳/2016)、『遙かなる他者のためのデザイン―久保田晃弘の思索と実装』(BNN新社/2017)、『メディアアート原論』(フィルムアート社/畠中実と共編著/2018)、『インスタグラムと現代視覚文化論』(BNN新社/きりとりめでると共編著/2018)『世界チャンピオンの紙飛行機ブック』(オライリージャパン/監訳/2019)、「2021年宇宙の旅 モノリス_ウイルスとしての記憶、そしてニュー・ダーク・エイジの彼方へ」プロトエイリアン・プロジェクト(Proto-A)などがある