ニューアイデンティティ

ニューアイデンティティ
君と明日のボーイ・ミーツ・ガール

ナンバー

07

君と明日のボーイ・ミーツ・ガール

森 旭彦

誰しも恋愛における「神話」を知っている。それは「運命の人」や「ボーイ・ミーツ・ガール」、つまり少年が少女と出逢い、恋に落ちるというラブストーリーだ。しかし現代は「ボーイ・ミーツ・ボーイ」だって、「ガール・ミーツ・ガール」だってある。ぼくたちの恋愛は、メディア・テクノロジーによって新しい自由を手に入れている。しかしその代償として、新しい不自由が議論されている。自由と不自由の間でゆれる、恋のニューアイデンティティのお話。

聞き手:森 旭彦
グラフィック:早川 翔人

2021.09.03

/ Posted on

2021.09.03

/ 聞き手
森 旭彦
/ グラフィック
早川 翔人

「運命の人」という神話

どんなに合理的な恋愛を望む人でも、最初はドラマや映画のように、そして音楽のように恋をする。つまりアーティストや作家の描くラブストーリーこそが、ぼくたちにとっては、恋の伝道師だった。ぼくたちは「ボーイ・ミーツ・ガール」や「運命の人」といった、ラブストーリーのイメージを、現実に重ねて恋をする。

ファッションと同様に、恋愛観にもトレンドがある。恋愛もメディアという資本主義と情報テクノロジーによってつくられた情報の乗り物によって、ぼくたちのところへ運ばれてくる。ぼくたちが信じて疑わない「運命の人」のような神話だって、じつはメディアの産物だ。

2007年、アメリカの心理学者、ビャルネ・ホルムズは「運命の人」という神話がいかにつくられるかを明らかにしようとした。メディアを通して伝えられる恋愛ロマンスが人々の恋愛観にどのような影響を与えるかを調査したのだ。アメリカ北東部の主要な公立大学に通う学部生294名(男性84名、女性209名、平均年齢19.8歳)に対するアンケート調査をベースに行われたこの研究は、恋愛のメディア・コンテンツの嗜好性が、「運命の人」に代表される恋愛観を持っていることと相関性があることを明らかにした。つまり、映画やドラマにロマンスを求める人ほど、現実の世界でも「運命の人」のような神話を求めるようになるということだ。

興味深いのは、「運命の人」のような恋愛観は、性別のように生来的に獲得されたものではないことが同研究で示唆されていることだ。つまり「運命の人」は、調査に参加した学生の性別の差や恋愛経験の影響とは無関係だったのだ。ぼくたちはメディアのように恋をする。そして恋をすることで自分をもメディアの一部し、世代の恋愛観を生み出していくのだ。

産業社会の恋愛からデジタル社会の恋愛へ

21世紀の恋愛のもうひとつの側面は、ぼくたちがデジタル社会に生きているということだ。「Tinder」に代表される「デーティング・アプリ」はまさに産業社会の恋愛からデジタル社会の恋愛へのシフトを物語る。統計によれば、2020年のアメリカにおける、スマートフォンのデーティング・アプリ利用者は2,660万人と推定されている。また、2023年には2,570万人になると予測されている。

恋愛が変わっていくということは、ぼくたちが「親密になる方法」も変わりつつあるということだ。現在は香港中文大学(The Chinese University of Hong Kong)で教鞭をとるリク・サム・チャン(Lik Sam Chan)は、ゲイコミュニティにおける“デジタルな親密さ”を、デーティングアプリから分析する研究で知られる。チャンはデーティングアプリを活用するゲイの男性へのインタビューとアンケート調査を通し、彼らのネットワーク化された親密性(networked intimacy)から、これからの普遍的な親密さへの洞察を提供している。チャンはゲイの男性7名と、245名のアンケート調査結果を分析し、彼らがデーティング・アプリを利用して親密になる際に、「関係性の曖昧さ」をしばし戦略的に利用していることを挙げている。つまりは“ブラフ”である。

チャンが指摘するブラフは、アプリのユーザのプロフィールの書き方だ。たとえば、真剣な交際相手を探しているとプロフィールに書きながらも、主にセックス相手を探すことに利があるアプリ(Scruffなど)を使っているということもあれば、「友達を探しています」と書きながらも実は交際相手を探しているということもあるという。チャンはこうした曖昧な、時には誤解を招くような目的を持つことは、カジュアルセックスへの社会的スティグマを逃れるためだけでなく、潜在的な可能性を捉えるための戦術でもあるのかもしれないと分析している。言い換えれば、そうしたブラフをつかうことが、彼らの親密さの構築においては“セクシー”なのだ。

チャンは同研究を、限られた範囲のものであることを認めているが、メディアがぼくたちの恋愛をつくるとするなら、現代のデジタル社会の恋愛をつくっているのは、まさにこうしたソーシャルメディアやデーティングアプリで起きていることであるはずだ。

愛と暴力に、線は引かれるか

恋愛とセックスは切れない関係にある。セックスにおいて重要な議論は、その同意である。しかし性行為の同意において、テクノロジーは新たな不自由を突きつけている。

各国で性行為の同意をめぐる法改正、すなわち、レイプを明確にし、処罰するための法整備が進められている。日本では刑法が性犯罪の実体に見合わないことから、2月10日、同意のない性行為を処罰の対象とする「不同意性行等罪」の創設をめぐって6万筆の署名が法務省に提出された。こうした動きに対し、デジタルテクノロジーにその解決を求める動きがある。各国で生み出されている「セックス同意アプリ」だ。

デンマークでは、英国と同様、パートナーが積極的に同意していない性行為がレイプであることが法的に認められている。そうしてデンマークで生み出されたものが、性行為前に同意書を作成する、きわめてセクシーではないセックス同意アプリだった。

このアプリのユーザーは、性行為をするパートナーのスマホに、メッセージで同意を求める。これに対し、パートナーが同意する旨の返事をすると、両方のスマホに同意が成立したことを示す同意書が提示される。かくして、一度の性行為が有効になる。さらにこの同意書には24時間の有効期限があり、同意の撤回は任意に可能であり、パートナーの履歴を追跡する機能もあるとされる。

この欠陥だらけのアプリをめぐって、広範な反発が寄せられた。WIRED UKによれば、それらはプライバシーの悪夢、法廷での低い有効性、デザイン上の欠陥などであったという。また、オーストラリアにおいても同様の同意アプリがリリースされ、反発をかったという。その主たる理由は同意の偽造や悪用の恐れであり、法律改正や全人的な教育をさしおいてアプリをリリースするという短絡的な意思決定にあった。

性交渉の合意という、そもそもの線引きが難しいケースがある事象に、デジタルテクノロジーで0と1の線を引くと、滑稽なことになる。ぼくたちはみな、住宅ローンを組むような方法でセックスなどしたくはないのだ。その一方で、明確な線が引かれなければ、性暴力を助長することになりかねないという事実がある。

たとえば英国では「ステルシング」が近年盛んに議論されている。ステルシングとは、性行為中に、相手の同意なく避妊具を外す行為を意味する。同意を覆す行為であるから、英国では、ステルシングは法律上、レイプに相当する。しかし低い社会認知がこの違法行為を横行させ、野放しにしているという。BBCの報告では、ステルシングの被害に遭い、妊娠・中絶に至ったイギリスの女性のことが紹介されている。この女性は、被害に遭った後、レイプだと気づいて警察に届けたが、証拠不十分で不起訴になったという。

実際に、性交渉の同意をめぐっては課題が山積している。宗教や慣習、さらには文化といった言葉で表現されることが多いが、性交渉の同意は、そもそも人類の歴史において、女性の人権がどのようにして踏みにじられているかまで遡ることができる深い問題でもある。

ぼくたちは誰しも、これほどに不自由な世界に、ある日突然、好きな人を好きになる自由を持って生まれる。おまけにどうやって好きになるかを自分で見つけなくちゃならない。そんな孤独が、君と明日のボーイ・ミーツ・ガールだ。もちろん、ボーイ・ミーツ・ボーイだって、ガール・ミーツ・ガールだっていい。それでも、君は誰かを好きになるし、幸せになることを希求し続けるんだ。

森 旭彦/ジャーナリスト

京都を拠点に活動する物書き、メディア研究者。主な関心は、テクノロジーと人間性の間に起こる相互作用や衝突についての社会評論。WIRED日本版などで執筆。 企画編集やブランディングに携わる傍ら、インデペンデント出版のためのフィクション執筆やジャーナリスティックなプロジェクトに携わる。ロンドン芸術大学大学院、メディア・コミュニケーション修士課程修了