ニューアイデンティティ

ニューアイデンティティ
身体のニュー・アイデンティティは生まれるか? ブレイン・マシン・インターフェースの現在地

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身体のニュー・アイデンティティは生まれるか? ブレイン・マシン・インターフェースの現在地

ルカ・トニン/ロボット工学者(博士)

宇宙開発ベンチャー「スペースX」や電気自動車メーカー「テスラ」を生み出した実業家イーロン・マスクが、脳をコンピュータと接続する「BCI(ブレイン・コンピュータ・インターフェイス)」の技術を開発する「ニューラリンク(Neuralink)」で次に狙うのは、脳のイノベーションだ。近い未来、私たちは最新型のスマートフォンを手にするように、この脳をテック企業へと開け渡し、新たな身体のアイデンティティを手にするのだろうか? BCIの可能性と現在地を、イタリア・パドヴァ大学のルカ・トニン博士へのインタビューを通して読み解く。

聞き手:森 旭彦
グラフィック:早川 翔人

2021.03.30

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2021.03.30

/ 聞き手
森 旭彦
/ グラフィック
早川 翔人

パンデミックは「プレゼンス=存在」を変えた

2月1日、ブルームバーグが奇妙なニュースを出していた。そのタイトルは「イーロン・マスク、“ビデオゲームをプレイさせるためにサルの脳をコンピュータに接続した”と語る」というものだった。

ニュース記事は音声SNS「Clubhouse」でイーロン・マスクが発表したコメントを引用して作成されていた。マスクが2016年に起業した、脳をコンピュータと接続する技術「BCI(ブレイン・コンピュータ・インターフェイス)」を開発する企業「ニューラリンク(Neuralink)」のアップデートだ。同記事によれば、マスクはサルの頭蓋骨内に、「Fitbitのような」コンピュータチップを埋め込み、“サイボーグ・モンキー”に思考だけでコンピュータゲーム「Mind Pong」をさせることを明言したという。

BCIは、いわゆるSFにあるような、人間が念じるだけでさまざまなものをコントロールできる未来を実現しようとする技術である。ニューラリンクは現在、脳や脊髄損傷によって身体能力を失った人々の治療を目的として開発を進めている。たとえば腕に障害を持つユーザが、念じるだけで電動義手を動かしたり、外部から映像信号を送り込むことで、視覚に障害を持つユーザに目を与えるような技術の実現だ。身体の自由が効かないユーザが、その身体から飛び出し、外界をロボットの身体で散歩し、社会に関わることも可能にするだろう。

ニューラリンクが提案するBCIが本当に実現すれば、私たちの脳と身体が持つ、一貫したアイデンティティは、現在のものとまったく異なるものになっていくだろう。人間の身体を、空間と時間の制約から完全に解放してしまう技術だからだ。

マスクは、さらなるビジョンとして、人間をAIに融合することを志向する。人間よりも進化しつつあるAIに人間の脳を融合することで、人間を知性体としてさらに進化させようという。ニューラリンクはすでに高精度の手術を可能にする手術ロボットすらも開発し、動物実験にも多数成功している。

ここまでくると「人類を火星に連れて行く」のとまるで同じ、テック好きを煽る、彼お得意の論法だ。しかしこのパンデミックを振り返ったとき、身体のアイデンティティは、テクノロジーによって容易に変化してしまうことも分かる。

このパンデミックは、物理的な身体を伴わなくても、「自分は自分として、この社会で存在し関わることができる」というリアリティを私たちに与えた。友人たちと「オンライン飲み」に興じ、音声SNS「Clubhouse」に出会いを求める。かつては人との物理的な触れ合いを前提としていた私たちのプレゼンスは、スマートフォンを介した「デジタルプレゼンス」によって大幅に代替されている。

プレゼンスを代替する手段が、スマートフォンから、直接脳をつなぐものに変わる。未来のいつかの時点でそうした出来事が起きても不思議はないのかもしれない。それに、欧米における現代性(modernity)の研究では、現代は「時間と空間の時代」だと考えられている。言い換えれば、スマートフォンやソーシャルメディアがそうしてきたように、時間と空間を経験する方法がさまざまに編みかえられる時代である。その証拠に、私たちは高度に時間と空間の体験を変えてしまう発明のことを「イノベーション」と呼ぶ。

しかし私たちは本当に火星への移住に胸を踊らせるように、脳をコンピュータに繋ぎ、この身体を捨て、新たな身体性を獲得する未来へと進んでいくのだろうか?

サイボーグオリンピック「サイバスロン」に見た、BCIの奇跡

BCIについて知る上で、スイスで開催されている、世界で初めての“サイボーグの競技会”「サイバスロン」で起きていたことを振り返ってみたい。2016年の初回大会で、世界中から集まった約4,000人の観客は、競技史上初だろう、BCIによるレースゲームを目撃していたからだ。

私は2016年、サイバスロンを取材するためにスイスを訪れていた。チューリヒ空港近くの街、クローテンにある試合会場「スイスアリーナ」の巨大なスクリーンには「BCIレース」のゲーム画面が映し出されていた。このレースゲームは、BCIによって操作される4つのアバターがマラソンで順位を競い合うというものだ。それぞれのアバターは、会場内にいる「パイロット」が操作する。もちろん彼らの手元には見慣れたゲームコントローラーなどは見当たらない。無数の電極を頭につけ、デバイスに接続されたパイロットらは、意識のみでこのゲームをプレイする。

レースが始まると、観客は最初、このレースにどうリアクションをすればいいのかと戸惑った。しかし、パイロットたちが画面上で緊迫感のあるレースを展開し、苦境を乗り越える瞬間を目撃するたび、会場に歓声がこだました。パイロットらはまぎれもなく、そこでアスリートとして競技を行い、観客を魅了していたのだ。

それは、彼らが意識のみで身体から飛び出し、現実と関わった瞬間でもあった。このパイロットたちは首から下の運動機能のすべてを失っているか、重度の麻痺を患っている。つまり彼ら彼女らは、意識が身体に閉じ込められ、物理的に現実に関わる能力の大部分を失ってしまった存在なのだ。それがサイボーグの競技会、サイバスロンでパイロットたり得る資格なのだ。

「脳のことは、まだほとんど分かっていない。つまりBCIは、“よくわかっていないもの”を相手にしている、という限界を持つテクノロジーであるということだ」

現在はパドヴァ大学にいるロボット工学者、ルカ・トニン博士はそう語る(2021年2月22日インタビュー収録)。トニン博士は2016年以降、「Brain Tweakers(スイス連邦工科大学ローザンヌ校、EPFL)」(2016年)、「WHi(パドヴァ大学)」(2019年・2020年)を率い、サイバスロンのBCIレースで優勝し続けた実績を持つ人物だ。

BCIは、大きく分けて、意識で命令をする人間、脳の信号を解読する「デコーダー」、それを実際の動きとして出力する先である「アプリケーション」(サイバスロンの場合、ゲームの中のアバター)、という3つの構成要素からなる。トニン博士は、BCIにおける大きな課題として、これらの構成要素の中に人間という「よくわからないもの」がいる点を指摘する。そして、この課題を克服するためには人間とコンピュータ間の「共同学習」が重要であるとする。

「現在、世界中で非常に多くの研究チームがBCIに取り組んでいる。しかし彼らは、人間の脳の信号を適切に解読するための『デコーダー』側のパートばかりに注力している。たとえば、機械学習アルゴリズムを用いて、脳の信号をより高精度に解読しようとすることだ。これは主流のアプローチだが、BCIはそもそも、人間の脳という不安定で未解明なものをデコードしていることが前提となる。この欠点を克服する上で必要なものは、人間が、人間とは異なる知能であるコンピュータとともに学び合うプロセスにある。私たちはそれによって実現される自律性を『シェアード・オートノミー(共有された自律性)』と呼んでいる」

トニン博士はシェアード・オートノミーの典型として「Hメタファー」について言及する。Hメタファーは、自律型モビリティ開発などで引き合いに出されるもので、操縦者とモビリティの理想的な自律性を、乗馬のメタファーで説明するものだ。たとえば、未知の森の中の広い公園で自転車に乗って目的地に向かうというタスクを想像してほしい。当然、地図を見ながら走行することになる。たびたび立ち止まり、迷うこともあるだろう。そして時には地図を見ているせいで樹木などの障害物に手を焼くこともあるだろう。

しかし馬に乗る場合、馬は自ら障害物を避けて進むことができる知能を持っているために、人はより安定して地図を見ることができ、目的地へ安全に、早くたどり着くことができるだろう。このような、馬と人の知能の協調によって生まれる関係性がBCIの実現で重要になるとトニン博士は話す。

「サイバスロンの成功から分かったことは、BCIは、デコーダーのイノベーションだけでは限界があるということだった。私たちが実践したのは、デコーダー、人間、アプリケーションの3つの要素を包括的な相互学習方法論で統合することだった。人間をコンピュータと接続するためにはまず、異なる知性とともに学ぶ方法が必要だ」

ニューラリンクの2つの魅力

トニン博士はニューラリンクを非常にポジティブに受け止めている。

「ニューラリンクが素晴らしいのは、まずBCIの認知度を押し上げたことだ。今では研究畑以外でもその名前を知る人は非常に多い。それはここ近年の研究を加速していると言えるだろう。また、もうひとつはテクノロジーの面だ。彼らは既存のテクノロジーを最適化し、デバイスの小型化、ワイヤレス化に成功した。似た技術を持つ企業はあるが、あの精度で実現している企業は他にはない。しかし問題は、侵襲であるということだ」

とトニン博士は語る。侵襲とはつまり、人間の皮膚下に外科的手術によってデバイスを埋め込む手法だ。ニューラリンクは脳にコンピュータチップを埋め込み、ワイヤを縫い付けることになるため、侵襲的なデバイスだ。

「侵襲か非侵襲かは、BCIにおける脳の信号取得のジレンマだ。侵襲的な方法は高精度で情報を取得できる反面、安全面での課題が大きい。一方で非侵襲は安全だが、情報の取得が難しい」

実際に、非侵襲の手法には倫理的問題が多い。科学誌・Natureに、脳にデバイスを埋め込まれたとある患者の悲劇が報告されている。その患者は45年間、ひどい“てんかん”発作に悩まされ続けていた。そこで、とある企業が開発したデバイスを脳内に移植した。このデバイスは、てんかん発作の兆候を事前検知し、患者に薬の服用を知らせるというものだ。デバイスは非常に効果的に作動し、その患者とデバイスは良好な“共生関係”を築いていた。

しかし、そのデバイスを開発していた企業は倒産してしまった。サービスの停止に伴い、患者はデバイスを脳内から取り出さなければならなくなったのだ。自分の一部となった身体機能を取り外し、生活のクオリティを下げなければならない悲劇は想像を絶する。その患者は「私は自分自身を失った」と感じていたという。侵襲的手法は効果が大きな分、被験者の存在そのものにも大きな影響を及ぼすのだろう。

「現在、こうした問題を回避するために、私たちは非侵襲の手法を模索している。もっとも期待されているのは『ドライエレクトロード』、つまり、従来の、ベトベトしたジェルを用いた電極ではなく、乾いた電極による信号取得だ」

最後に、トニン博士にBCIはこの先どのような未来を実現するのか、私たちの倫理やアイデンティティはどう変わるのかと尋ねた。彼は「それを考えるにはまだ時期尚早だ」と笑いながら答えてくれた。BCIの現在地はまだ、SF好きを興奮させるようなものではないようだ。そしてトニン博士はBCIの可能性についてこのようにコメントした。

「もしもBCIによる完全な制御が可能になったら、宇宙空間で宇宙飛行士の作業を助けたり、工場などでの危険な作業に従事する人々を助けることが可能になるだろう」

最後にトニン博士は、「もっともこれらの変化は、1世紀という時間軸で起きることではあるけれど」と言いながら、こう付け加えた。

「もしもそんな未来が到来したら、身体の概念は今のものとは全く異なるものに変化するだろう。私たちの身体は根本的に拡張されることになる。それには、モビリティやロボットを、私たちの身体としてとらえることも含まれる」

私たちは身体のアイデンティティを再定義する旅の途中にいるのだ。今明らかなのは、それが遠い風景であること。しかし、それは明らかに見えてきているということだろう。

ルカ・トニン博士

2013年、スイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)でロボット工学の博士号を取得。イタリアのパドヴァ大学知能自律システム研究室で3年間のポスドク研究を行い、2016年よりEPFLの上級ポスドク研究員。現在はパドヴァ大学情報工学科の助教授(RTdA)。ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)分野と、神経科学が交差する点が特徴である。