越境者たちの鳥瞰図

越境者たちの鳥瞰図
全身全霊で、暮らす。異端の登山家が再発見した「新しい狩猟採集生活」前編

ナンバー

01

全身全霊で、暮らす。異端の登山家が再発見した「新しい狩猟採集生活」前編

簡素な道具だけを背負い、食料を現地調達し、人跡のないルートから山に登る。 サバイバル登山家の服部文祥は、より深く山に向き合えるスタイルを模索し続けてきた。 探究の末に登山の先で出会ったのは、現代版の狩猟採集生活。 都市に生まれ、高峰に命を懸けた登山家が見出した 古くて新しいライフスタイルとは。

取材:藤原祥弘
撮影:高橋郁子

2021.01.25

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2021.01.25

/ 取材
藤原祥弘
/ 撮影
高橋郁子

登山家52歳、山中に庵を結ぶ

「サバイバル登山について聞きたい。そして、できれば猟の模様も見せてほしい」そうお願いすると、服部は某県の山深い沢を集合場所に指定した。教えられた場所に続くのは、4輪駆動車でも乗り入れるのを躊躇する狭い林道だった。もう通る人もいないのか、道には厚く落ち葉が積もり、轍もない。入る沢を間違えたのではないかと心配になったころ、森が切れてぽかりと空が開けた。そこが、服部が手に入れた廃集落、小蕗だった。

「できるなら車は集落の外に停めてほしい。資源を使い過ぎる道具は、ここには持ち込まないようにしているんだ」

出迎えてくれた登山家はそう言うと、ひとつかみの枯れ草を庭からむしりとって土間のカマドに押し込んだ。手鍋を火にかけ、茶葉と香辛料、牛乳を合わせて紅茶を濃く煮出す。若いころにインドで学んだチャイの抽出方法だという。淹れてくれたチャイからはシナモンとクローブが強く香った。

服部の暮らす小蕗の古民家。深い山中にあって、この一角だけが開けている。古民家の二階は蚕を飼う蚕室として使われていたようだ。
たっぷり注いだ牛乳で茶葉と香辛料を煮出す。「横浜の自宅でも牛乳は自分が担当して切らさないようにしている」

服部がこの古民家を手に入れたのは一昨年のこと。登山の最中に見かけて気になり、持ち主を探し出して掛け合うと驚くほど安い価格で屋敷と土地を譲ってもらえた。横浜の本宅から電車とバスと徒歩をつないで半日の道のりだが、時間を作っては訪れ、自力で修繕して暮らせるように整えた。小さな太陽光パネルで電気を自給し、沢から水を引き、森から集めた薪で煮炊きをし、風呂を沸かす。集落には数軒の家が残るがどれも無人のため、周囲数kmには誰もいない。

「家を妻に見せたときには、その荒れ果てぶりに絶句していたよ」と服部は笑った。服部は現在、ここ小蕗と横浜を往復する二拠点生活を送っている。各地の山を登るだけなら横浜の家だけでも十分だが、登山を深めるうちに出会った狩猟と、さらにその先にあった「生活」を自分のものにするには、横浜郊外の家では力が足りなかったという。

土間は自分で打ち直し、カマドを据えた。「昭和期に増築された台所もあるが、カマドには土間のほうが使い勝手がいい」と服部。

「自分の人生を人任せにせず、自力でやる部分を少しでも増やしたいと常々思っている」。服部が社会への依存度を最小化しようと試みる理由は、彼を育んだ都市への疑いと、積み重ねてきた登山遍歴にあった。

服部が少年時代を送ったのは、横浜郊外の大型団地。古くからある里山が宅地へと開発される最前線で、周囲にはそれなりに自然が残っていたという。

「当時の横浜郊外の雰囲気をジブリの映画で例えれば、トトロ以降、平成狸合戦以前といった感じだろうか。放課後には仲間や下級生たちを引き連れて里山に出かけ、カブトムシやザリガニを獲っていた。どちらかといえば、ガキ大将気質だったと思う」

カマドの上に吊るされるのは塩漬けのシカ肉。「冷蔵庫は使っていない。ここの気温なら来年の梅雨までは保つ」

服部少年は人と違うことをやろうとする性格でもあった。通っていた小学校では、体がランドセルに合わなくなった高学年は好きな鞄を使うことを許されていたが、周囲がランドセルを卒業するなか、服部だけは頑なにランドセルを使い続けた。

「このエピソードを自分ではすっかり忘れていて、大人になってから当時の友人に『村田(※旧姓)はいつも人と違うことをしようとしていた』と言われて思い出した。思い返せば、他者とは違う自分でいたい、表現者になりたい、という意識はずっと心のどこかにあったと思う」

そのいっぽう、家庭のなかでは「できのいい兄のその弟」という役回りだった。服部より2つ上の兄は、勉強も運動もできて、学区でいちばんの進学校に通っていた。のちに猛勉強の末に服部も同じ学校に通うことになったが、高校までは兄に対して引け目を感じていたという。

「それが変わったのは入学から少し経ってから。自分のほうが兄貴よりも心肺能力が高いことがわかったんだ。これは当時の自分にとってちょっとした事件だった。まず優秀な兄貴がいて、その下に付属物のような自分がいる。そんな意識を持ち続けていたけれど、兄貴より秀でているものを発見したときに、自分という存在を強く意識したよね」

「中学2年生まではまるで勉強しなかった。小学高校学年のときに、俺の九九があやしいことに母が慌てたこともあったよ」

自分だけのフロンティア「現場」を求めて

のちの人生にもうひとつの大きなヒントを与えたのは、高校時代に愛読した本多勝一のノンフィクションだった。本多勝一は「現場こそが重要だ」と著書のなかで繰り返していたが、当時の服部には、自分の人生に自力で開拓する余地や「現場」があるとは思えなかったという。

「生まれてきたら社会は全部でき上がっていたし、自分はその予定調和のような世界をただ歩んでいくばかりだった。大学に入り、やがて就職し、企業のために滅私奉公する姿まで見えている。現場なんて本当にあるんだろうか、自分が自力で何かを世界から奪う日がいつか訪れるのだろうかと、ずっと考え続けていた」

暖かい布団と風呂、潤沢な食物、良好な家族関係に恵まれながら、服部は自分のことをなんと不幸な世代なのだろう、と嘆いていた。当時は親戚にも戦争の体験者が多く、何かの拍子に戦争中の話を聞かされると羨ましささえ感じたという。

「年寄りが戦争を語るときには、もちろん反戦の姿勢を示すんだけど、そこにはいくらか自分のタフさや大変な状況を生き抜いたことへの自慢が含まれていた。そして、彼らが語る戦争体験こそ俺が求めていた『現場』だった。少年時代に触れた文化もそうだ。ガンダム、キャプテンハーロック、宇宙戦艦ヤマト、コンバット……。反戦、反戦と唱えるいっぽうで、戦場にある生と死をめぐるロマンをメディアは売り物にしていた。本多勝一も開高 健も戦場に取材者として入っており、戦場という現場を記録していた。戦場カメラマンの石川文洋や沢田教一にも憧れたよね。進む道が少し違えば、戦場を目指していたかもしれない」

「タフな状況に身を置くことに憧れていた。複雑な家庭をもつ同級生をちょっと格好いいな、って思ったりね」

日夜自分の「現場」について考える中で目についたのが、全国大会へ出場していた陸上部の同級生たちだった。服部の目には彼らが大人びて見えていたが、その理由は彼らが日本のトップレベルで鎬を削っていることにある、と服部は分析した。

「一流たちが競い合う場所には、きっと現場がある。しかし、自分には一流のアスリートになれるほどの才能がないかもしれない。そんなことを考えているときに頭に浮かんだのが登山だった。当時の登山は今よりも簡単に人が死んでいた。たとえ超一流になれなくても、生死を懸ける登山をすれば本物の現場を体験できるだろう。そう思って、大学でワンダーフォーゲル部に入ったんだ」

取り組んでみると、登山は服部の性に合っていた。心肺機能が強かったことはもちろん、他者とは違うことをしたい、と願う表現者としての自意識を登山は満たしてくれた。登山の世界では、難しい岩壁や未踏峰に登れば初登者として記録が残る。「現場」を求めるいっぽうで芸術家にもなりたいと思っていた服部には、登山に自己表現の側面があることが嬉しかった。

「絵を描いていた俺の母親は、ことあるごとにアートの良さを語っていたし、京都で見た運慶の像に強い衝撃を受けたこともある。思春期に読んだ芥川龍之介や梶井基次郎の作品も格好良いと思った。これらの作り手のような、優れた作品を遺せる存在になりたいとずっと思っていた。言い切ってしまえば、登山とは身体を使ったアートのひとつなんだ。ダンスに近い身体表現といえばわかりやすいだろうか。そして、まだ未踏だったエリアがあった時代には、登山は人間の可能性とその開拓の証明でもあった。エベレストが登られた後では、その証明の側面は薄まったけれどね」

「ラファエロとミケランジェロの作品を見にイタリアへ行ったこともある」。そのままユーラシア大陸を陸路で横断して帰国した。

世界最高峰が制覇された後でも、身体表現としての登山は輝きを失っていなかった。服部にとって、登山は憧れ続けた表現の世界と、本多勝一の提唱した現場が揃った舞台だった。登山に魅入られた服部は、登られたことのない岩壁を見つけてはそこを攀じ登り、記録を登山の専門誌に投稿した。

「卒業が迫ると、本気になれないまま就職活動もした。今にして思えば完全に被害妄想なんだけど、当時の俺は就職とは企業の駒になって猛烈に働くことだと思い込んでいた。しかし、見栄もあるし結婚したい女性もいた。結婚して、ひとつの生命体として繁殖を成功させるには、社会的な地位か金が必要だ。どちらかがなければ女は振り向いてくれない。意を決して就職活動をしたけれど、企業の人事は馬鹿じゃなかった。就職に乗り気でないことを見抜かれて失敗続きだった。なかには『君は就職しないで山登りを続けたほうがいいよ』なんて言う面接官もいた。卒業も迫った冬、ひょんなことから知り合った小さな山岳系出版社に拾われ、俺は登山を続けながら出版社の社員として働き始めた。余談だけど、就職活動で俺を書類選考だけで落とした出版社が2社ある。そのうちのひとつである新潮社には『息子と狩猟に』という小説を出してもらえたから仇は取った。残るは、岩波だな(笑)」

世界第二の高峰へ

こうして就職は果たしたものの登山を離れることはできず、服部は休日を使って難しい山へと挑み続けた。有給休暇はすべて山行に使っていたため、風邪を引いても会社は休めなかった。体調が悪い日は這うようにして出社し、営業に出たふりをして家に戻って休んだという。

「谷川岳や剱岳の難しいルートをフリーソロ(ロープを使わずに単独で登ること)で登る俺を見ていたのが、パキスタンを旅したときに出会った岳友だった。村田がヤバい登山をしている。あのままでは死ぬ。どうせ命を懸けるなら、正統な登山でリスクを負ったほうがいい、と世界で二番目に高い山であるK2の登頂を目指す登山隊を紹介してくれたんだ」

そのK2とて楽な山ではない。K2に挑んで登頂できた者とK2を登る最中に死んだ人間の比率はおよそ4対1。今回の登山で自分は死ぬかもしれない、と思いながら服部はトレーニングに励んだ。

「当時は名門山岳部に所属していなければ海外遠征が難しかった。K2の隊に参加できたのは幸運だった」

服部が参加した登山隊は、当時としては画期的な試みとして、いろんな大学から猛者を集めて組織されていた。総勢18名のメンバーのうち、K2の頂上にアタックできるのは10名。隊長を始めとする役付きが枠の約半数を占めており、残る席は6つしかなかった。そのため、事前のトレーニングは自分の能力をアピールしたい平隊員が熾烈な競争を繰り広げた。

「酸素が薄い極低温の富士山を競うようにして駆け上った。顔からは血の気が引き、手指は真っ白になった。山に強いはずの俺がそんな状態なのに、もっと強い奴が3名もいたことには驚いたよ。ところが、いざK2に行くと俺は誰よりも調子が良かった。高度にうまく順応できるかは行ってみなければわからない。最終的にこの遠征では俺を含めて12名がK2のピークに立った。この遠征は成功したけれど、富士山で俺よりも強かった3人のうち、ひとりは山をやめ、2人はその後の登山で死んでしまった」

日本の山を、深く自由に登る

K2の登頂の翌年に結婚・改姓。村田文祥から服部文祥となる。改姓の理由は「服部のほうが村田より格好いい」というものだった。結婚の2年後から服部は「サバイバル登山」を標榜して独特な登山を展開していく。それはテントや時計、ライトのような便利な道具を排して、簡素な道具で登山をする、という一風変わったスタイルだった。

「登山を知らない人にもわかってもらえるように、普段はサバイバル登山を『できるだけ自分の力で登る割合を増やし、既存の道を使わない登山』と説明している。しかし、本当のところサバイバル登山の原点はフリークライミングの思想にあるんだ」

フリークライミングでは人工的な道具に頼らず、自分の手足だけで岩壁に挑む(安全を確保するロープなどは使う)。K2では酸素ボンベやフィックスロープ(以前の登山者が残した固定ロープ)を使う場面もあったが、こういった人工的な道具は登山の純粋さを損なうと服部は感じていた。道具を使う登攀は「作業」の繰り返しになり、そこには登山の創造性はない。道具に頼りすぎると、どの岩を登っても同じになってしまう、と服部は言う。

「サバイバル登山では、人間本来の能力を拡張する靴や衣類などの道具は使ってもいいことにしている」

「その点、千差万別な岩をフリークライミングで登るには、難易度に応じて自分を高めていく必要がある。フリークライミングの世界に触れて、フェアで美しい登山とはこういうことだと思った。人工的な道具を使って登られていたルートを、身ひとつで制覇することを『フリー化』と呼ぶんだけど、このフリー化を日本の山全体で行なったらどうなるか、という問いがサバイバル登山を始めたきっかけだった」

フリークライミングの思想に照らしたとき、日本で「登山」として楽しまれている行為のほとんどは登山ではないと服部は考えている。

「トレッキングやハイキングを登山の下に見ているわけじゃないけれど、自然のままの山を登るのが登山なら、誰でも歩けるように整備された登山道を辿るのはトレッキングかハイキングと呼ぶべきだろう。こんなことを言うと、あちこちから叱られちゃうんだけど(笑)。どんな登山をするかは行為者の自由だが、自分が一体何に取り組んでいるかはきちんと個々人が自覚したほうがいいと思っている」

登山家、本物の食べ物と出会う

便利な道具を使わないサバイバル登山に取り組んでみると、この試みは抜群に面白かった。食料として持ち込むのは米と調味料だけ。現地で魚や山菜を調達しながら、地形の弱点を突いて進んでいく。始めたばかりのころは魚を釣る能力も低く、キノコも山菜も識別できなかった。しかし、食料の採集技術を磨くのは謎解きのようで面白かった。自然が隠した謎を解く度に、登山に占める自力の割合が増えていった。現地調達の技術が高まれば、食料を軽くできるぶん身軽になり、長期間の行動も楽にこなせるようになった。

「装備を限定するサバイバル登山には、ひもじさや寒さといったマイナス面もあるけれど、サバイバル登山を通じて『人が耐えられる辛さ』のラインを知れたのはよかった。これ以上快適でなくても、旅を続けられるという線引きができるようになった。人間だって地球上の生き物だから、原始的な環境で耐えられないほど弱くはできていないんだよ」

「日本は湿潤で温暖だから有利。サバイバルのハードルはほかの国々よりも低いと思う」と服部。

サバイバル登山では、より装備を簡素にするためにテントを使わずタープの下で眠る。人工的な灯りは持ち込まないため、タープの下におこす焚き火だけが夜の光源だ。人工的な灯りがない夜の闇は深いが、ライトを持ち込まなかったおかげで、真夜中の山中でも薄らと明るいことを知った。

「晴れれば月灯り、星灯りがあるし、薄曇りの日もぼんやりと見える程度の明るさがある。強力な光源を持ち込んでいたら、野外の暗さに濃淡があることを知らなかっただろう。そして暗闇に対して抱いた恐怖心。怖いことは決してマイナスではなく、生きるために必要なサインだ。恐怖心があるから我が身が守られる。生物に根本的に備わる力を自分の中に発見するのは、嬉しい体験だった」

サバイバル登山を実践するなかで、特に衝撃を受けたのがイワナを釣って食べることだった。イワナを殺して食べたとき、これこそが本当の食物だ、食べるという行為は本来こういうものだと気がついた。

「それと同時に、29年間自分が本当の食物を口にしていなかったことと、いわばまがいものの食べ物で生活ができてしまうこの国のシステムに驚いた。おいおい、こんなんでいいんですかい、と自分の脳天気さと日本の社会の異様さを笑ったよね。下界に戻ってからは、日々の食事を『これは本物ではない』と感じるようになった」

本物ではないと感じながら、自分はそれを食べ続けられるのか。本物の食物を自力で獲れるようになるべきではないか。自問自答を繰り返すうちに、服部の興味は狩猟の世界へと向かっていった。サバイバル登山の開始から6年後、35歳で服部は狩猟免許を取得する。奥多摩の猟師に弟子入りして、技術を身につけてからは銃を担いで単独で渉猟するようになった。今では、この小蕗をベースにして獲物を追いかけている。

「明日は、小蕗を日の出前に発って猟場に入ろう。獲物の機嫌次第では、本物の食物をご馳走できるかもしれない」

 

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服部文祥  サバイバル登山家・作家

1969年神奈川県生まれ。K2、剱岳八ツ峰北面、薬師岳東面などの登山の記録をもつ。99年から電子機器などの便利な道具を排した「サバイバル登山」を実践。簡素な道具だけを携えて山に入り、食糧を現地調達しながら長大なルートを人力で踏破する。著書の『ツンドラ・サバイバル』で梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞。小説『息子と狩猟に』で三島由紀夫賞候補に。