越境者たちの鳥瞰図

越境者たちの鳥瞰図
全身全霊で、暮らす。異端の登山家が再発見した「新しい狩猟採集生活」後編

ナンバー

02

全身全霊で、暮らす。異端の登山家が再発見した「新しい狩猟採集生活」後編

国内外の岩壁に輝かしい記録を刻んできた登山家服部文祥。 よりフェアな登山、より美しく登る方法を問い続けた登山家は 50歳を過ぎて、山中の廃集落で自給的な生活に取り組んでいる。 「他力に頼るのは、自分の人生を誰かに代わりに生きてもらうこと」 。人生を余すところなく自分のものにしたいと願った男の、生活の結論。

取材:藤原祥弘
撮影:高橋郁子

2021.01.25

/ Posted on

2021.01.25

/ 取材
藤原祥弘
/ 撮影
高橋郁子

山から来た『本物の食物』

「狩猟をしている姿を撮りたい」とお願いすると、服部は同行を許してくれた。出された条件は、服部と服部の愛犬・ナツの後ろを静かに歩くこと。

「不要な音はもちろん、獲物への色気はできるだけ出さないでくれ。こちらの姿を見せなくても、獲物たちは殺気を感じとるんだ」

日の出直後の谷筋には、まだ日射しが届かない。霜が降りた落ち葉が一歩ごとにサクサクと音を立てる。思いのほか大きな足音に、獲物に気づかれてしまうのではないかと忍び足になる。猟場に着くと、服部は猟銃のカバーを外して獲物が潜んでいそうな枝沢をひとつずつ確認しはじめた。

愛犬・ナツとカラマツの林を探索する。「猟に連れ出すと、犬は自分で考えるようになるよ。顔つきも変わった」と服部。

「ピューイ! ピューイ!」

いくつ目かの枝沢を服部が覗き込んだ瞬間、強くシカが鳴いた。声がする方向へナツが猛ダッシュし、服部がそれを追う。銃声が聞こえるかと待ち構えたが、音は続かなかった。数分後、沢の奥から服部が戻ってきた。

「出会ったタイミングが悪かった。撃つには間合いが遠かった。でも、大丈夫。獲物はいる。こんなふうに谷を見ていけば、どこかで射程距離の内側にいる獲物に出会える」

その言葉の通り、次の獲物はあっさり現れた。すかさず駆け寄った服部が弾を撃つと、弾かれたようにシカが跳んだ。ナツがシカに追いすがり、その脚を止めているうちに2発目が放たれた。腹と首に弾が命中したシカが崩れ落ちる。服部は倒れたシカに駆け寄って膝をつき、ポケットから出したナイフで大動脈を掻き切った。拍動に合わせて、切られた血管からリズミカルに血が噴き出す。極度の緊張が解けたためだろうか、服部の顔は寝起きのそれのように弛緩している。

木の幹に銃身を依託してシカに照準を合わせる。「最近は10回出猟すれば9回は獲れる」と服部。

「獲物を撃ったあとはいつもこうなる。きっと大量のアドレナリンを出したことの揺り返しなんだろう。犬も同じようで、撃ち止めた獲物に激しく噛みついていたと思ったら、そのあと急に静かになるよ。そして人の場合、獲物を確保して放心したあとに極度に饒舌になったりする。狩猟は人の世界を離れて獲物の世界に没入する行為だ。獲物の世界から人の世界に戻ってくるために、人にしかできない『話す』という行為が必要なのかもしれない」

そこまでひと息に話すと、服部はナイフでシカの腹を裂き、内臓を取り出した。そのなかから心臓を選び出し、ナイフで3つの切れ目を入れて捧げ持つ。目を閉じはしたが、服部の口からはなんの音も漏れなかった。ただ静かに、何者かに対して祈っている。

シカに齧り付いたナツが唸るのを止めると、森は再び静かになった。獲物は壮年期のオスだった。

「この作法は、銃猟を教えてくれた小菅村の猟師から習った。そして、獲物の心臓に切れ目を入れて祈るのは、多くの狩猟採集民族に共通する儀式でもある」

それだけ言うと、服部は森から運び出すためのロープをシカの脚に結んだ。行動開始から1時間もかからないスピード狩猟だった。

獲物と視界を交換する

小蕗の家に戻りシカを庭先の架台に載せると、服部は小さなナイフで皮を剥ぎ始めた。ナイフはシベリアを訪れたときに手に入れたもので、自動車の板バネから削り出されたものだという。

「狩猟を始めたのは35歳のとき。取り組んでみると、登山以上に面白かった。サバイバル登山も多くのことを教えてくれたけれど、『自分がこんなことを考えるようになるなんて』と思うほど、狩猟は想像もつかなかったことを俺に考えさせた。獲物を殺すときにはいろんなことを考える。当たり前だが、獣にも情動がある。親子の情も深い。それを知りながら撃ち殺すのは怖いし、かわいそうだなとも思う。そのいっぽうで、食い物を得るのはそういうものだと自分に言い訳をしたりもする」

シカの解体に使うのは、小さなナイフと剪定バサミ。「ある程度切れればナイフはなんでもいい」という。

話しながらも、服部のナイフはキビキビと働いてシカの皮を剥がしていく。服を脱がせるように、肉と皮が分かれていく。

「40代の後半からどんなにトレーニングしても身体能力が伸びなくなり、維持するだけでも精一杯になった。同時に自分の繁殖期が終わりつつあることも感じている。人生の折り返し地点を過ぎて、自分は今、ゆっくりと死に向かいつつある」

「獣を撃つと、どこに当てても瞬間的に死ぬことはない。脳を撃ち抜いても、腹を開ければ心臓が強く拍動している。大脳がダメになっても自律神経系はまだ生きているんだ。弾が当たった場所が足や腹なら、1km、2kmを平気で走るやつもいる。その瞬間だけを見れば、獲物は生きている。しかし、数分から数時間のうちに必ず死は訪れる。それと同じように、折り返し地点を過ぎた俺も確実に死に向かっている。死に向かう坂の角度こそ違うけれど、向かうベクトルの先は撃たれた獲物と変わらない。ゆっくりと死につつある自分が、どんどん生命感を高めている最中の若い獣を殺すことの是非は、よく考えるよ」

ときには頭も使いながら解体する。匂いを嗅ぎつけたスズメバチが集まり、次々に肉を齧り取っていった。

「狩猟と比べたら、登山をしているときの自分は、まるで山を見ていないようなものだった。そりゃそうだよね。目的の岩場に到着するまではずっと下を向き続けて、岩場について初めて山を見る。それに対して狩猟では、山に一歩踏み込んだときから獲物やその痕跡を探し始める。山の見方として、登山は線なんだ。山菜採りやキノコ狩りは面で山を見る感じ。そして狩猟は、獲物の引いてきたスジとこちらのスジを合わせる感じだな。山は動かないが、獲物はその上で変化し続けている。あらゆるサインを読み解き、獲物と自分のタイミングを合わせることに狩猟の妙がある」

山を歩くときの意識も、登山と狩猟ではまるで違う、と服部は言う。

「登山の最中は『俺は服部文祥だ』という感覚で山を歩くけれど、狩猟をするときは人間としての個性が薄れ、動物の世界に入った無個性なヒトとしての自分を意識する。こんな感覚になるなんて狩猟を始めるまでは思いつきもしなかった」

「個人を離れたヒトとしての自分を意識するいっぽうで、自分が獲物へと成り代わることもある。狩猟者は獲物の気分になって地形や天候のことを考える癖がつくけれど、これを繰り返しているうちに、獣の目線で山や人間を見る瞬間が訪れる。これは恐ろしいよ。獲物の視界になったとき、そこにはプレデターとして森へやってきた自分が映るわけだから。獣の目線で人間を見ると、自分の帯びた残虐性をまざまざと見せつけられる」

人類学では狩猟者が獲物の視線を得ることを「パースペクティブ(視界)の交換」と呼ぶ、と服部は解説する。その道の研究者によれば、これは狩猟採集民に広くある現象だという。また、自分が狙っている動物に狩猟者が変化(へんげ)する昔話は世界中に残っている。これはパースペクティブの交換について語ったものではないだろうか、と服部は言う。

「人は猟について色々考えるけど、犬は考えてないな。ただ、興奮がある」

「狩猟を続けるうちに、世界を構成する粒子としての自分を意識するようになった。観念ではなく実体験として、アニミズム的な世界観が身についた。自分を中心とする世界があるのではなく、先に世界があって自分がたまたまそこに属しているだけなのだ、という感覚がある」

「これまで人類は、自分があって世界があるという西欧的な考えを推し進めて文明を作ってきたけれど、その先にユートピアはなかった。人類が存続を願うなら、ほかの生き物と交わる方向へ文明を変えていかなくてはいけない。それを理解するには、狩猟を体験することが必要だと思っている」

金を使わないことで、人生を自分のものにする

登山と狩猟を並行して深めるうちに、お金のことを疑うようになった、と服部は言う。

「人のいない場所を歩くサバイバル登山は金がかからない。必要なのは往復の交通費と米と調味料の食費程度だ。もちろん、山に入った瞬間から1銭も使わない。1週間から10日、長ければ1ヶ月ほどお金を使わない。登山に限らず、生活に占める自力の割合を増やすと、お金がかからなくなるんだ」

「山中に長くいると、お金がかからない世界のほうが本物で、何をするにも金が必要な世界のほうが間違いなのではないか、という思いが強くなる。現代人はお金で便利さや時間を買っているわけだけど、その購入資金を手に入れるために人生の多くを費やしている」

精肉の最中に肉を切り出して焼き、味見をさせてくれた。「大人のオスのわりには美味い個体だ」と服部。

都市では家賃や食費や電気代がかかり、自分の糞尿を流すことにさえ金が必要になる(水道料金には下水道の維持管理費も含まれている)。その金を稼ぐ時間を捻出するために便利な電化製品を買えば、道具を動かすための電気代が必要になる。こうして現代人は、生きるのに直接必要なもののためではなく、生活を維持するために働き続ける。

このジレンマに気づいたとき、服部はお金のかからない暮らしを作ってみようと思ったという。それを試みる小蕗の家は、電気はソーラーパネルから供給し、水は沢から引いている。調理も風呂の湯沸かしも、拾ってきた薪で行なっている。畑では野菜を作り、肉は山からやってくる。体を通り抜けた元獲物、元野菜は、庭先の土にそのまま返している。

「発電した電気は灯りと通信、それといくつかの電動工具に使っている。掃除や洗濯に使わなければ、それほど大きなソーラーパネルはいらない。薪も水も肉もタダだし、ウンコをするのだってタダ。要は、自分でシステムを作って体を動かせば、お金がかからなくなる。そして、これこそが生きることなのだと思う」

生活とは本来、場当たり的なもので日々移り変わっていくものだ。日本人はなんでも盤石にしようとしすぎている、と服部は指摘する。

「例えば、震災のあとに東北の沿岸に築かれた防波堤。あれは、数百年に一度は訪れる津波を防ごうとするものだけど、本来、人間の営みはそれぐらいのスパンで自然の力でまっさらにされるものだと思う。都市のマンション群もそうだ。あれらは何百年先までも変わらず自分も世界も存在するという思想の下に作られている。その考え自体が、移り変わっていくことが当然である自然と相容れない」

登山や狩猟に取り組みながら、生とは何かを考え続けた服部は、自分の命を継続するために積み重ねる生活こそが、生きることではないかと考えている。

「人間、長生きしたって100年。若い頃は100年を長く感じたけれど、50歳を過ぎてこれまでの倍だと思ってみれば案外短い。将来の蓄えを得るために、今の人生を賃金労働に費やすとき、人はいつ生きていることになるのだろう」

「たとえば、それなりのナイフでも、日々メンテナンスをすれば切れ味を維持できる。これと同じように、自分の心身もその場その場で調整していけばいい。もっと場当たり的でいいんだ。金を使って手に入れた物は、その物自体が新たな金を欲しがるし、金を使って生活を電化製品や他人に委託するのは、生きられたはずの自分の人生を他人に肩代わりしてもらうようなものだ。理想の生活水準を保つために人生を労働時間に奪われている人は一度、お金に頼りすぎる生活から下りてみたらどうだろうか」

服部文祥  サバイバル登山家・作家

1969年神奈川県生まれ。K2、剱岳八ツ峰北面、薬師岳東面などの登山の記録をもつ。99年から電子機器などの便利な道具を排した「サバイバル登山」を実践。簡素な道具だけを携えて山に入り、食糧を現地調達しながら長大なルートを人力で踏破する。著書の『ツンドラ・サバイバル』で梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞。小説『息子と狩猟に』で三島由紀夫賞候補に。